調べ学習の経験を思い起こして①

2024年12月5日(木)

 

雑誌の書評にて、岩波ジュニア新書の「東海道 水の旅」(1991年刊)と、「新・東海道 水の旅」(2015年刊)の紹介がされていて、両方読んでみることにした。これはおもしろい。一気に読み切った。

もともと、ゴミの処理と下水の処理は実際どうやっているのだろうと気になっていた。本には、品川の下水処理施設をはじめに東海道新幹線沿いの上下水施設や川について道順に解説されている。

小学校3年生の社会の授業で、浄水場のことは学ぶけれど、下水について学んだ記憶はない。私の小学校区には浄水場があったので、その関係なのかもしれないが。理科の授業で、川に流れる水のはたらきについて学習したけれど、校庭に水を流した記憶くらいしか残っていない。水と土地の関係をこれまで考えることもなかったなと思う。

一時期、学校の裏を流れる小さな川に興味をそそられている時期があった。5年生の社会科の授業で、テレビ放送のことを学習していたときのことだ。学校では後に社会科見学でNHKに行き、番組作りを体験することになっていた。その擬似番組の題材をどうしようかと話し合いをしていたときのこと、途中の休み時間で水を飲みに行った階段の踊り場の、水道から顔を上げた窓の先に、昔から馴染み深い川が目に入った。これだという感覚を今でもありありと覚えている。

教室であの川のことを調べようと提案すると、クラスメイトの承認を得た。それからみんなで分担して川の上流や下流インスタントカメラを持って歩いた。といっても、小学生が行ける範囲なんて所詮限られていたし、コンクリートで護岸工事され、住宅街の谷間を流れるその川はたいして風景も変わらないのだが。ただ、下流側はすぐ隣町に別の川への合流地点があり、最終地点に来れたという感慨に浸ることができた。逆に上流側は途中で側道がなくなり、先は私たちにとって未開の地だった。よくみると、鴨が泳いでいたり、鶴みたいな白い大きな鳥(サギ)がこんなところにやってきていたりすることに気がついた。

2000年代のインターネットと、図書室に1冊だけあった資料をもとに、番組を作った。クラスメイトと、アナウンサーやディレクターなどの役割を分担して番組作り体験をさせてもらったことは思い出深い。ちなみに私はテクニカルディレクターという、映像の切り替え作業をする仕事を担当した。

そのときわかったことは、もともと蛇行していた川を一直線に工事をして、川岸もコンクリートで固めたこと、あるときから一級河川という指定をされていること、水源は地下水の湧水でそれが近隣の生活と関係していること、一時期水質が悪かったがだいぶ改善されたことであったように思う。

5年生にしてはよく調べられたと当時思っていたし、NHKの体験プログラムの質の高さが相まって、特別な経験になったのだと思う。

そして、その頃知らなかったことを、中学生になって、また、今になって知ることになったと、しみじみと思い返している。

 

ホント、気づいたら時間って過ぎてる

2023年8月19日(土)

 

午後からの予定に向けてGoogleマップで目的地までの道順を調べ、家を出る時間を決める。

昼食を途中で食べようと表示の時間より早く家を出ようと試みるが、常にギリギリまでダラダラする私には、そのようなことはできるはずもなかった。結局、目的地のバス停を降りて、近くのコンビニに早足で入り、おにぎりを1つ買って即座に食べた。

Googleマップで道順や所要時間をしっかり調べておくことと、自分の感覚で家を出たり目的地に行くことの違いについて考えてみる。

調べたり、記録したり、観察したりすること。それは確かに大事だ。例えば農業をしている人は、収穫量を高めるために、畑の状態を細かく観察したり記録したりする。ある目的を達成するためには、そのような緻密な管理が必要かもしれない。そもそも「収穫量」という数値を気にした時点で、記録等の数値化が志向されている。

では、目標を数値化しなければ、曖昧な管理でも問題がないのだろうか。家庭菜園でナスを育てていると、収穫を数えたりはしないけれど、うまく育っていないとか、実があまりできないとか感じることはある。その場合だって数値化している場合と、考え方が大きく違うわけではないような気がする。曖昧な管理というのは、家を出た時間と同様、ただの怠慢というべきなのかもしれない。

良い・悪い、嬉しい・悲しいなどの評価は、数値化してもしなくても想定できるように思うのだけど、例えばそれをもとに反省しようとか、ふりかえって何か進歩を生もうとするなら、というか、数値化しない評価をもとに反省や進歩ということを考えられるのか。また、数値化した評価が実態を表すには向いていないような場面があるとすれば、それから先の進歩なんていう考え方がどう可能なのだろうか。

均質な時間であったとしても、そうでない時間もあるはずではないか、時間の感じ方なんてそのときそのときで変わる!

そう思ってたけれど、楽しい時間は一瞬、退屈な時間は冗長といったとて、時間の流れていることには変わりはなく、退屈な時間にも必ず終わりがくるだろう。

種植えや収穫のタイミングははっきり決まっているわけではないけど、適期というものはあって、ぼけっとしていると逃してしまう。(そんなことばかりしている。)

ただ、例えば雨が降ると種植えできないとか、様々な要因によってタイミングは変化する。だから、何月何日に植えようとかあらかじめ決めておいて絶対に実行するなんてことも無意味だし。

 

ダウンジャケット

2024年3月28日(木)

 

予定があったが昼までダラダラする。昼から、少しはあったかくなっただろうとダウンを家に置いて薄着で出かける。

駅に着いて定期券がないことに気づく。ダウンのポケットに入れっぱなし。やりそうなミスだとこの前思っていたばかり、案の定。

仕方がないので電車に乗るのはやめて、駅前のモスバーガーで仕事の資料を読む。

仕事のやり方が変わって、新鮮な感じがする。職員が見通しをもちやすくなった反面、形式的になったことに違和感を感じる。

その後、散髪して、家庭菜園をしている市民農園に行きキャベツやネギを植え、パソコンにJRのトレインシュミレーターというゲームをインストールするなど、ただの充実した休日になる。

ただ、ノートpcにゲームをインストールするのはイマイチ。ゲーミングpcを買わずにどうやってプレイするのか、検索に勤しんだ結果、ネットカフェに行くのがいいのではないかということになった。それはなんだか楽しみです。